パンダと僕の胸のうち

1月のパンダの内臓(パンチャレジ脇募金)は¥529-でした。また、3ヶ月分ほどまとめて納めに行ってきますね。

あと1ヶ月で震災から1年。
不安も疑問も絶えない毎日は続きますが、所詮僕は被災者ではない。
その僕が、1年近くも募金や節電を訴え、少ないながらも続けている理由はなんなのだろうか。
色々な理由はあるのだろうが、「目に焼きついてしまった惨劇から、少しでも心を軽くしたい。」という自己中心的な気持ちも一つの理由なんだろう。
「男子~、静かにしてー。…私は“静かにしてっ”って言いましたからね!」という優等生女子的な
「僕は震災に対して、募金も節電も、脱原発も訴えましたからね!」のような。

実際、あれだけの被害に対して、1ヶ月で529円ほどを振り込んだところで、焼け石に水にすらならないのではなかろうか。
その529円だって、自分だけのお金ではなく、お客様にお願いした募金していただいたお金である。だから、そのお金の価値を僕がどうこう言うのは間違えているのも解っている。

募金の行く先が不明瞭なのも、悩んでしまう原因だ。
震災で困っている方に、必要な状態で利用していただいているのだろうか?
震災より困っている方も居るのではなかろうか?

避難所の生活が1年も続くなんて想像したことがありますか?
毎日プライバシーの無い空間で、3食仕出しの弁当を食べ、きっと諦めきれずに帰れる当ての無い故郷を思い続ける。
そんな哀しみも違う角度から見れば、3食の食事もままならない人達の影がちらつく。

実際、避難所に留まるしかない方は高齢者の方が多いのだろうか?
僕が実際被災して、それでも尚働ける気力が残っているのなら、他の地で踏ん張る道を選ぶのではなかろうか。
「自分の力で立て!」と言える優しさもあり得る。
その道標となるべく、義援金が使われているのだろうか?

本当は、悩んでいるのなら現地で現状を見て、感じてくるのが一番だ。
でも、悲しい波動に引きずられやすい僕は躊躇してしまう。
そろそろ、僕ほどのものが行っても冷静でいられる状況にまで回復しただろうか。
そろそろ…そろそろ、会いに伺わなければならないと感じている。

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